「言葉考」
後につづける言葉が違うと,意味がまったく違ったものになる言葉がある。
例えば,『罪深い』だ。
「私は罪深い人間です」と書いたら,ああ,この人は心に何か悔やまれることがあるんだろうなと思ってしまう。
「私は罪深い女よ」とくれば,ほうほう,この女の人は相当男を泣かせたなと思う。
「罪深い子供」ときたら,何かこの子供にはドロドロした猟奇的なものを感じてしまう。
だから何だと言われても,何も言えないが,言葉って面白いと思ってしまう。
言葉を研ぎ澄ますことに,今一番関心がある。
もっと適切な言葉は? もっと言葉を削って,などと考えると自然と俳句に辿り着く。
五七五の中に季節を入れ,作者の心情を語る。
むずかしい。
芭蕉を超える俳句はもう無いかもしれない。
そんな領域に達した芭蕉は晩年に何を感じたのだろう?
言葉の虚しさだろうか?
もっと言葉を語りたかったのだろうか?
私は現存する作家の中で最も好きなのは村上春樹である。
その村上春樹が15年程前に書いた本がある。
共著は糸井重里である。
確か題名は『夢で会いましょう』だったと思う。
その中で,糸井重里の書いた文の中にこんな件があった。
「仮面という言葉をお面という言葉に変えたら面白い」
「道化師という言葉の代わりにおかしな人と言ったら面白い」
というようなことである。
流石,日本を代表するコピーライターである。
言葉の本質,言葉の違いを的確に表している。
奥さんと別れて,ほかの有名女優と結婚した糸井がわからなかった。
人道的に許すことが出来なかった。
しかし,この本を読んで以来,私は糸井重里を見直すようになった。
だからどうした,と言われても困るのだけれど。