月曜日, 11月 20, 2006

その仔 1

 『その仔』

 その仔は,見捨てられた仔だった。
 誰からも顧みられることのない仔だった。
 5月のある日,彼女はその仔と出会った。
 彼女は4匹の中からその仔を選んだ。
 躊躇することなく。
 
 帰りの車の中,ダンボールの小さな箱の中で,その仔は小さく震えていた。
 車が止った時も,その仔は不安だった。
 その仔は,家の中に入れられた。
 そこは,最初,その仔にとって冷たく感じられた。
 どこを探しても,暖かい母親のお腹は無かった。
 無性に獣臭い小屋の匂いが懐かしかった。

 その仔の目の前に,食物が置かれた。
 その仔は少し匂いを嗅ぎ,彼女を見上げた。
 彼女は,優しくその仔の頭を撫でた。

 その仔は,それまでそんなことをされたことがなかった。
 いつも,その仔は隅に追いやられていた。
 いつも,その仔は他の仔にはじかれていた。
 いつも,母親の乳房の出の少ないところにあてがわれた。
 その仔の後ろ足は丈夫でなかった。
 その仔にとって頭は,殴られるためにある物だった。
 その仔は,他にとって疎まれる存在だった。

 その仔は戸惑った。
 なぜ?
 わたしがたべていいの?
 わたしのあたまをなでるのはどうして?

 その仔は,何もかもが不思議だった。
 その仔は,不意に抱きかかえられた。
 その仔はちょっと不安になった。
 いつ落とされるのかと,恐怖心でいっぱいだった。
 でも,彼女はその仔を抱きかかえ,頬ずりをした。
 その仔は,くすぐったさを感じながらも悪い気持ちではなかった。
 その仔は,初めて人の優しさを知った。

 その仔は大きくなった。
 彼女はもう,その仔を抱きかかえることができない。
 その仔はもう,仔ではなかった。
 でも,彼女の前でのその仔は,仔だった。

 彼女が草原を走る。
 その仔は彼女を追いかける。
 その仔は足が悪いため,なかなか彼女に追いつけない。
 彼女が走るのをやめる。
 その仔は彼女に追いつく。
 その仔は彼女に抱きしめられる。
 その仔は彼女の匂いを嗅ぎながら,暖かい日差しを浴びる。

 その仔は,もう,獣臭い小屋のことを忘れてしまった。
 自分を小突いてばかりいる兄弟を忘れた。
 母親の硬くしぼんだ乳房を忘れた。
 今,あるのは,彼女の存在。
 いつも優しく抱きしめてくれる彼女。
 この頭を撫でてくれる優しい手。
 時々,草原で繰り広げられる追いかけっこ。

 その仔は,生まれて初めて幸せを感じた。

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