『その仔』
その仔は,見捨てられた仔だった。
誰からも顧みられることのない仔だった。
5月のある日,彼女はその仔と出会った。
彼女は4匹の中からその仔を選んだ。
躊躇することなく。
帰りの車の中,ダンボールの小さな箱の中で,その仔は小さく震えていた。
車が止った時も,その仔は不安だった。
その仔は,家の中に入れられた。
そこは,最初,その仔にとって冷たく感じられた。
どこを探しても,暖かい母親のお腹は無かった。
無性に獣臭い小屋の匂いが懐かしかった。
その仔の目の前に,食物が置かれた。
その仔は少し匂いを嗅ぎ,彼女を見上げた。
彼女は,優しくその仔の頭を撫でた。
その仔は,それまでそんなことをされたことがなかった。
いつも,その仔は隅に追いやられていた。
いつも,その仔は他の仔にはじかれていた。
いつも,母親の乳房の出の少ないところにあてがわれた。
その仔の後ろ足は丈夫でなかった。
その仔にとって頭は,殴られるためにある物だった。
その仔は,他にとって疎まれる存在だった。
その仔は戸惑った。
なぜ?
わたしがたべていいの?
わたしのあたまをなでるのはどうして?
その仔は,何もかもが不思議だった。
その仔は,不意に抱きかかえられた。
その仔はちょっと不安になった。
いつ落とされるのかと,恐怖心でいっぱいだった。
でも,彼女はその仔を抱きかかえ,頬ずりをした。
その仔は,くすぐったさを感じながらも悪い気持ちではなかった。
その仔は,初めて人の優しさを知った。
その仔は大きくなった。
彼女はもう,その仔を抱きかかえることができない。
その仔はもう,仔ではなかった。
でも,彼女の前でのその仔は,仔だった。
彼女が草原を走る。
その仔は彼女を追いかける。
その仔は足が悪いため,なかなか彼女に追いつけない。
彼女が走るのをやめる。
その仔は彼女に追いつく。
その仔は彼女に抱きしめられる。
その仔は彼女の匂いを嗅ぎながら,暖かい日差しを浴びる。
その仔は,もう,獣臭い小屋のことを忘れてしまった。
自分を小突いてばかりいる兄弟を忘れた。
母親の硬くしぼんだ乳房を忘れた。
今,あるのは,彼女の存在。
いつも優しく抱きしめてくれる彼女。
この頭を撫でてくれる優しい手。
時々,草原で繰り広げられる追いかけっこ。
その仔は,生まれて初めて幸せを感じた。
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